2012年4月22日日曜日

本棚「犠牲のシステム」


やのっちです。

福島の原発問題に関する本を読みました。
犠牲のシステム福島・沖縄
著者の高橋哲哉氏は福島生まれの哲学者です。

原発問題を個人が自分の人生という文脈の中でどう捉えるかという思想的困難は、福島県民のみならず日本に住む多くの人が直面したと思います。
僕も原発問題を抱える福島で研修を始めるにあたって思うことがなかったではないのですが、その問題を直視することを避けていたのかも知れません。
そんなときふと手に取ったのがこの本でした。

高橋氏は福島育ちで学生時代に上京した人です。福島に生まれ育ったということと、福島の原発で作った電気を使って暮らしていたということとが著者個人の葛藤を生んでいる、との記述もあり僕も共感するところがありました。


さて本の内容。

高橋氏が注目するのは、原発問題を天罰・天恵として捉える動向がめだったことです。
行き過ぎたテクノロジーに対する天罰であるから、これを機に我々の文明の抱える問題を改めるべきだ、というようなものの見方のことです。
著者はこれに対し、そもそも災害は地球物理学的メカニズムにしたがって起こるのであってそこに意味づけをするのは人間ではないか、なぜ福島が天罰という贖罪の構図に組み込まれなくてはならないのか、と問題提起をします。
そしてここに原発という負の資産を少数派に押し付けることによって大多数の人が利益を享受するという犠牲のシステムが浮き彫りになるといいます。
ここでトリッキーなのは原発を引き受けた地元側に多少なりとも経済的見返りがあったということ、集団の意向は必ずしも個人の意志の線形結合に還元できないことです。
その上で、この原発問題によって原発所在地を犠牲者とする―ある種植民地支配にも通じるような―犠牲のシステムが顕在化したということを、日本の世論に対する意識喚起という文脈において肯定的意味づけが可能だと論じました。

具体的施策を示すというよりも個人のなかでの意味づけに終始している印象の本ですが、学ぶところが多かったです。
特に、犠牲に対して無自覚でいられることこそが「植民主義的」である、という主張は含蓄が深いと思います。

無自覚であることが人を傷つけるという構図ってなんとなく普遍的な気がします。
マリー・アントワネットの「パンがないならケーキ(本当はブリオッシュ:卵のたくさん入った生地の贅沢なパンのこと。日本語だと「パン」としか言えないから「ケーキ」と訳したらしい)を食べればいいのに。」というセリフなんかもそのひとつでしょうか。
幼いころ母親に「勉強するのは優しい人になるため」と言い聞かされて育ったのですが、この本を読んで少しその意味がわかった気がしました。たくさんのことを学んでやさしい人になりたいです。
(ものすごく卑近なまとめ方になってしまってすみません笑)

でもやっぱり原発問題を自分の人生という文脈の中でどう落ち着けていくか、ということに関してはまだまだ難しいですね。
福島生まれでもない僕ですらそうなのですから、地元の方のお気持ちを思うと心が痛みます。



なんだか重い話になってしまってすみません。
まだまだ思うところはあるのですが、今回はこの辺で~

2 件のコメント:

  1. 会津総合病院Tetsutaroです。

    原発問題は、とても難しい話ですね。1年が経った今もなお、避難所にて避難生活を送る方々が大勢います。故郷に帰れるのか帰れないのか、今後の展望が見えない現状では、仕方ないことです。
    やのっちのような方が、福島のことを考え、福島で働いてくれるということはなによりも力になります。
    このブログでも研修のことだけではなく、いろいろなことを語り合って行きましょう!!

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    1. Tetsutaro先生、コメントありがとうございます!
      「ふくれじ!」は、僕だけじゃなくてたくさんの研修医が情報を発信していくメディアになると思うので、その中で幅広い話題に触れられればいいな、と思っています。
      会津総合のブログのほうにも遊びに行きますね(リンクを貼らせていただきました)。
      今後ともよろしくお願いいたします。

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