どーも、やのっちです。
先日、電話の取り次ぎで病棟の看護師さんから
「明日入院予定の●●さんなんですけど、明日の入院が斜めなので、入院の日程をずらせませんか?」
と言われ、
「…すみません、入院が斜めっていうのはどういう意味ですか?」
と聞いたら、
「(ため息)…もういいです。△△先生と直接話します。(ガチャ)」
と言って切られました。
斜めだからスルッとすべってずらしやすいのかと思ったら「斜め」ではなく「7名」でした。
新入院が7件もあってあまりに多いので人手が足りない、なんとかならないか、ということでした。
非常識な耳をしててすみません!…
さて、「100万分の1の恋人」という本を読みました。
ちなみにここでは、やのっちにスタイリッシュな読書は似合わない、という苦情は受け付けませんので、あしからず。(もっとも、「華麗なるインド系文字」とか「測定から読み解くレオロジーの基礎知識」とか「建築のエロティシズム」とか「爆発と凝集」とかをこよなく愛する事実は否定できませんが。笑)
すー、と読めるんだけど、なんだか心の重心がいつもより1.5センチくらい左前にシフトしたような読後感です(←全然伝わらんわっ!)。
この本を読んで再認識したことは、知ることの不可逆性・暴力性です。
知るという行為は不可逆的で暴力的です。
これは高校生のころからずっと考えているテーマの一つです(卒業式前日にほぼ徹夜で書いた答辞が懐かしい)。
ハーゲンダ●ツを食べることは幸せですが、その味を知った後に、エ●セルスーパーカ●プを食べるときの感情は変化するでしょう。
サンタクロースの●●を知った後、プレゼントをもらったときの純粋な驚きと感動は変化するはずです。
そんな日常的なことでも、知るという行為の暴力性を実感できます。
そして一度知ってしまうと、もう元には戻れません。
自分の出生に隠された暗い過去? あこがれのアイドルの整形前の顔? 自分への陰口? 人間が動物であるという事実? 抗えない大きな力の存在? 駄菓子の着色料の発癌性? 人の醜い心? 暴力? 老い? 隠された意図? 人はいつか死ぬという事実?
無知、というか知らないこと、無垢・純粋にも通じるようなそういう価値は失われていく一方です。自覚的に忘れることはできないから。忘れたいことは、特に。
そして、
知ることの不可逆性と暴力性の行き着く絶望の向こうに何を見るかは人それぞれですが、そこに諦観でもなく皮肉的態度でもなく、(許しというか)他者への優しさを見いだせたらいいな、と思うのです。
なーんて、斜に構えた感じで終えてみました。えへへ。笑
本の内容は1ミリも伝わらなかったと思います(すみませんっっ!)ので、興味のあるかたはAmaz○n等のサイトをご参照ください。
0 件のコメント:
コメントを投稿